待ち合わせの星に来ない

感性のリハビリ

安部公房『箱男』

ハズレを恐れずに目に入ったものから摂取していくと高らかに宣言したのもつかの間、人は簡単に変わらないもので当たり中の当たりであることが既に明らかになっているこの本を手に取った。

 

初めてこれを読んだのは大学生のときで、小説の皮を被った文章の実験的集合体に衝撃を受けた。

安部公房といえばSF的な世界観、私たちの世界がいつの間にか無機質で温度のない何かに覆われて、窒息しない水の中に沈んでしまったような、あの感じが我々の心を掴むのだけど、それに加えてなにより文章がいい。

いま君が見つめているのは、机の上の、厚い板ガラスの切口だ。距離感もなく、何処にも属していない、純粋な青。多少緑がかった無限遠の青。逃亡の誘惑に満ちた、危険な色。君はその青のなかに溺れて行く。なかに全身を沈めてしまえば、そのまま永遠にでも泳ぎつづけられそうだ。この青い誘いを、これまでに何度か受けたことを思い出す。

う、美しい。このリズム、この比喩。

この後続く文によると、この青は「精神的安楽死クラブから配布される愛の眼鏡の色ガラス」であって「その眼鏡をかけた者だけに、往きだけで帰りがない列車の、始発駅が見える」のである。たまらないね。

 

さて、箱男についてだけれど、個人と個人が交わる最小単位が「見る・見られる」であるとして、箱男はそれさえも拒むことができる。箱は個体を識別させない。そうなれば社会デスゲームに不戦勝、互いがどうしても関わりあわざるを得ない世界を一抜けし、他者の視線に脅かされることのない視界を手に入れられる。なるほどそれは快適かもしれないな、と読者は思う。

ただそれを飛び越えて関わりを持つ者が出てきたら?例えば箱の中の自分に話しかけてきたり、あるいは三千円を投げ込んできたり。箱男はそのとき、相手にとって「あの箱男」として認識されたことを自覚する。そして物語は動き出し、今度は自分ではない箱男が出現する。なるほどこれは箱男にとって想定外、自分を匿名たらしめていた箱が、今度は他人を自分にしてしまう。読者は本物の方の箱男、つまりは主人公に肩入れし、困惑に共感し、次の展開を待つ。

そこから十数ページ先、読者は匿名性を持っていたのは箱男だけでないことに気づく。文章上の「ぼく」は一人ではない。「ぼく」が違うのなら対峙する「君」も違う。文章を書いているのは誰なのか?本物と偽物は誰が決めるのか?何をもって個人を識別するのか?その疑問を嘲笑うように、軍医殿に名前を借りていた話や麻薬による幻覚を示唆する台詞が挟まれる。

私たちが主人公と思っていた箱男、ノートの書き手だと思っていた箱男、その前提が崩れ、もう一度全てが繋がりかけて散っていく。

これは推理小説ではないから、答えも解説もいらない。この一冊の中で振り回されてほっぽり出されて、我に返ったら脳のいろんなところがもみくちゃにされていたような、そんな感じがとても気に入ってる。

(なお文庫版に挿入された平岡篤頼による解説で、「作者安部公房も、理屈っぽい図式にしたがってこの作品を書いたわけではない。」との推論があるが、私はそうは思わない。安部公房の頭の中では彼だけが理解する理屈が絶対にあり私には見えない話のつなぎ目が存在するはず。)

 

最後に、本筋とは関係ないのだけれど、好きな台詞があって、それは医者が看護師に言ったこの言葉。

君なら、降りたての雪の上を歩いたって、足跡を残さずに逃げ切れるよ。

私は雪が積もるといつもこの喩えを思い出す。存在しないものとして存在する不恰好な箱男と、存在の痕跡を残さずに存在できる美しい女性。

不可思議な世界の中のこの妙な耽美さがまた魅惑的で、つい何度も読みたくなってしまうんだよな。

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)