待ち合わせの星に来ない

感性のリハビリ

マースティン・スコセッシ『沈黙ーサイレンスー』

遠藤周作の小説の中でも特に『沈黙』が好きなので、発表から50年を経てしかもハリウッドで映画化すると聞いたときは驚いたし、別に見なくていいかと思った。小説そのものがもう完成されていて、実写化によって新たな何かが生まれるとは思えなかったから。結果、そういう己の小さな視野での思い込みは当てにならないと思い知らされたのだけれど。

 

『沈黙』を初めて読んだのは中学生の時で、夏休みの課題図書だった。ミッション系の学校で、私含め信者ではない生徒の方が多かったけれどそれなりにお堅い学校だったので、てっきり「神の愛は素晴らしい」的論旨のものが課題になっていると思っていた。習っただけのお祈りの言葉を何も考えずに言える程度の中学2年生に、信仰そのものの意義を問うこの小説を読ませた国語担当はなかなかのセンスだと思う。

 

こういうテーマ性のある話では、主張というか、「どの肩を持つか」ということがどうしても透けてしまいがちなのに、『沈黙』にはそれがない。才能の他に、彼が日本生まれ日本育ちの日本人キリスト教徒であるからそういう書き方ができたのだと思っていた。

文学作品の映像化というのはとても繊細で難しいと思う。文章には間があり、読み手が想像する隙がある。同じ文章を読んでも、ある人はロドリゴを献身的だと感じ、ある人は高慢だと思うだろう。もちろん一方が誤読をしているのではなく、文章にはどちらの要素も含まれており、その比重が読み手の感性で変わるということだ。映像にも同じ現象はあるが、視覚による情報量が多い分、読み手に委ねられる解釈の隙は少ないと思う。台詞の言い方、役者の表情、BGM、カメラワークなどのちょっとした振れ幅で、製作側の意図を観客に示すことができてしまうから。

なにが言いたいのかというと、小説『沈黙』 のプロット以外の部分も忠実に映像化されていたことに感嘆したのです。それもアメリカで。前に出した例をもう一度持ち出すと、ロドリゴを献身的あるいは高慢、どちらかに振れて描くほうがよっぽど簡潔なのに、どちらの要素も入れつつ比重は観客に委ねさせる隙が小説と同じ ように作られていた。各々の立場を表すようないくつかの象徴的な言葉も、あくまでも決め台詞ではなく対話の中で語られていたり。小説がどの肩も持たないような作品だったからといって、 映像でそれを実現するのは容易ではなかったはずだ。構想から28年とのことだったが、その間に監督がどれだけ遠藤周作『沈黙』に向き合ってきたかがヒシヒシと伝わる。

 

そうした解釈の隙の中で描かれるのは、何かの是非ではなく、信仰とは?という人が人として生きる中でのコアな部分。キリスト教という一つの宗教だけの話ではなく。

そして、映画ならではの部分として、海が山がとにかく絶景だった。それらを引きで写す場面で対比される人間が、時代も宗教も超えて迫ってくる。159分。とても良かった。