待ち合わせの星に来ない

感性のリハビリ

川端康成『山の音』

どうしようもない、老いは本当にどうしようもない。自分がいつか死ぬということ、この瞬間も確実に一歩一歩死に近づいているということ、私はまだ若いので実感がないが、いざ自らの老いに直面した時、それはどれほど受け入れ難い問題であろうか。

そして老い以上にさらにどうしようもないのが家族の問題であって、これも本当にどうしようもない。家族を幸せにできないかもしれないということは、老いと同等もしくはそれ以上に受け入れ難い問題であって、せめてこれだけはどうにかしたい。死ぬのは自然の摂理で逆らえないものだが、家族が幸せでないことはどうにかできるはずであり、しなければならないものであり、しかしこれがまたどうしてどうにもならない。人生は本当に切ない。

 

主人公の信吾は一家の大黒柱であり、理想的な良き父・良き夫ではないまでも、暴君でも怠け者でもなく、普通のお父さん、といった感じ。息子修一のお嫁さんの菊子がまあよくできた女性で、花が咲いたとか鳥が飛んだとかの日常を丁寧に共有し、柔らかな日々を過ごしている。

しかし家族とはその一つの家の中に、夫婦、親子、兄弟 、嫁姑など様々な関係が共存しながら毎日が積み重なるもので、信吾と菊子が仲良しだからといって修一と菊子が良い夫婦とは限らないし、むしろ修一と菊子の夫婦関係に深刻な問題が横たわっていたときに、信吾は問題に対しては部外者でありながら、関係に対しては責任がある。家族それぞれが抱えている問題は根深く、自分の娘は子供を二人連れて出戻り、息子は不倫中。心の支えである息子の嫁は、自分の息子のせいで苦しんでいる。一つ屋根の下で。こうして書くと地獄めいているが、このくらいの不和は珍しいことではない気もする。

そして日々の中では人も死ぬ。友人が死に、菊子は子どもを堕ろし軒下の犬は子どもを産む。人は必ず死ぬし死ぬまで人生は続く。人生とは無常だ。信吾も菊子も修一も、こんなはずではなかったと思っているのではないか。

それでも、最後の場面で、会話の内容は円満なものではないが全員が席について食事をとる。不和も包み込んで一つの食卓を囲える家族というものが人生の及第点であるように思えて、そういう落とし所はずるいなあ。これをラストとして書けるのは、人生だいたい分かった人だけだもの。

 

愛らし耽美な理想の嫁こと菊子に妄想と萌えを膨らませながら読むのがスタンダードな楽しみ方のような気もしたけど、若輩OLの私には菊子に感情移入する部分もあったのでこういう読み方になった。読む人によって主題も全然変わるんだろうな。

 

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

 

lovelytheband『Finding It Hard to Smile』

どっかのショッピングモールで流れていて、Siriに教えてもらったバンド。バンド名とメンバーのルックス、曲の感じが全部意外。

 

かかっていたのは『Broken』で、MGMTの『kids』っぽさがある。この感想は100人中80人が言いそうだ。

 

英語が得意ではないので細かいニュアンスはよく分からないけど、アルバム全体を通して寂しさがあって、でもそれは部屋の隅で膝を抱える孤独ではなく、パーティでお酒飲んで笑い合ってふとトイレに立って我にかえった時のような感じ。孤独は陰キャの専売特許ではなく、どんな人でも人である時点で既に寂しさを抱えているんですよ。それを感じるポイントと頻度に個人差があるだけで。一人でいて寂しいときも、大勢といて寂しいときも、誰かを拒絶する寂しさも、誰かを求める寂しさもあるでしょう。鬱々とした孤独に浸れる曲もいいけど、日々をつつがなく過ごす中で心をかすめる寂しさに寄り添い肯定してくれる曲も必要だ。

まあ歌詞を見るとドロドロの孤独を武器に君を口説き落とす、みたいなものもあるんだけど、曲調がどこかキャッチーでノスタルジックなせいか、どの曲も内面に閉じこもるような感じはしない。私もどうしようもない寂しさが常に心の奥に控えているけど、四六時中自分の殻に閉じこもってそれらと向き合っているわけではなく、むしろ寂しさの気配を押し殺して社会生活を送っている。でもその状態ももはや寂しい。その間抱えている寂しさが消えているわけではないし。アルバムタイトルは『Finding It Hard to Smile』。笑顔になれない孤独もあるけれど、笑顔を作る孤独もあるよね。

 

私は『Broken』の次に流れる『Alone Time』がお気に入り。浮遊感があって、気持ちが良くて、やっぱり少し寂しい。

 

never young beach『fam fam』

先日見た『緑色音楽』に彼らの曲が使われていて、そこから数日妙に耳に残ったのでアルバムを聴いてみた。

そしたらなんだよめちゃくちゃいいじゃんか。もっと早く知りたかったわ〜と嘆いていたら、「最近はシティポップがきてる」とか言って2年くらい前の飲み会で話題になっていたのを思い出した。翌朝早速YouTubeで聞いたんだけど、いかんせんそれが繁忙期の職場へ向かう満員電車の中だったのが悪かった。「とにかく仕事に行きたくない、海へ行きてえ」という気持ちが手に負えなくなってしまったため再生を止め、それきりになってしまったのだ。なんという勿体無いことを。

 

映画で使われてたのは1曲目の『Pink Jungle House』。低くて穏やかなボーカルと、優しくて温暖なメロディが心地よい。ちょうど今日は爽やかに晴れた過ごしやすい日で、メロディに感化されて私の歩く道も日差しで光りだす。私の感性は満員電車に殺されていただけだった。

 

そして8曲目『明るい未来』が際立って良い。この曲がこんなに良いって、みんなとっくに知ってたんでしょう。悔しい。愛って音になるんだな。

幸福って、今ハッピーなことじゃなくて、これから先ハッピーじゃない日がきても生きていけると思えることだと思うんですよ。その究極が幸せな死だと思っていて、いつか寿命が来て私が死ぬ時、大切な人に看取られながら、ああ色々あったけどいい人生だった、と思いたい。それとも私が後だったら、やっと再会できることを喜びたい。もちろん実際どうなるかは分からないけど、幸せな死を思い描けるようになってから、もう全然生きていける。

明るい未来の話し

例えば僕らが死んでしまっても

あっちでも仲良くやろう

いつまでも側にいてくれよ

この人となら死んでも明るい未来だとお互いが思っていること以上の幸福がある?

 

なのでその後に続く『お別れの歌』が辛すぎて受け入れられない。さっきまで「いつまでも側にいてくれよ」って歌ってたのになんで「お別れのときだよ」なんて言うの?ねえなんで?

このままだとあまりに辛いので、普段はやらない考察作業に入り、「お別れ」は心変わり等による決別ではなくて死なのだと解釈することで心の平穏を保った。

小松菜奈が存在しない傷をえぐってくる鬼MV。

 

ちなみに『Pink Jungle House』は劇中歌で、主題歌だった『なんかさ』は次のアルバムに収録されているもよう。そちらもそのうち聞きます。

 



スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』

見てきた。IMAXで。ただただ身を委ねるしかない3時間を過ごすにIMAX環境は至高だった。

 

例のトラップシーンは最大限の音響と映像効果で、本当に自分が流れに呑まれているみたい。私は初見だったので、何が何やら分からぬまま濁流に身を任せていたのだけど、何故だか強く「う、生まれる…」と思った。まだ私は生を受ける前の意識だけある状態で、早くここから抜けて目を開けて声を上げたい。この暗いチカチカを過ぎれば私は生まれることができる。そう思ってただ身を硬くしてたんだけど、よく考えたらなんでそんな風に感じたんだろう。実際あの場面はスターチャイルドとして生まれ変わる過程のシーンだったけれど、それが分からないうちから謎の「生を受ける」感があった理由はなんなのか。あんなに抽象的なのに。もしかしたら全員生まれる直前にああいう体験をしていたんじゃないだろうか。臨死体験というのは聞いたことあるけど、臨生体験があるのならばこれのことだと思う。

 

小さい頃、人は猿から進化したと教わり、では何故猿がまだ猿として存在しているのかと不思議だった。最近人に進化した猿というのも聞いたことがないので、何らかのミラクルの重なりの果てに進化が起こりヒトが誕生したのだろうが、遠い昔にあったことなら何百万年周期でもう一度実現したってなんら不思議じゃない。ヒトの誕生をもたらした偶然の重なりをモノリスという一つの物体にすることで、ファンタジーな設定でありながら「また同じことが起こり得るのではないか」と思わせる説得力と迫力があった。

スターチャイルドになる人間は何を感じるんだろう。初めて道具を使った猿は喜びの雄叫びをあげていたけど、老いたボーマンはあまり嬉しそうじゃなかったな。でも、猿が私達を見てもきっと何を考えているか分からないように、私たちもスターチャイルドのことは分からないんだろう。猿から人間レベルの進化なら、スターチャイルドは人間の感性を超えきっているはずだから。

そう思うとあまり意味が分からなかったラストシーンも、スターチャイルドになれば理解できるのかもしれないな。

 

2001年宇宙の旅 (字幕版)

2001年宇宙の旅 (字幕版)

 

マースティン・スコセッシ『沈黙ーサイレンスー』

遠藤周作の小説の中でも特に『沈黙』が好きなので、発表から50年を経てしかもハリウッドで映画化すると聞いたときは驚いたし、別に見なくていいかと思った。小説そのものがもう完成されていて、実写化によって新たな何かが生まれるとは思えなかったから。結果、そういう己の小さな視野での思い込みは当てにならないと思い知らされたのだけれど。

 

『沈黙』を初めて読んだのは中学生の時で、夏休みの課題図書だった。ミッション系の学校で、私含め信者ではない生徒の方が多かったけれどそれなりにお堅い学校だったので、てっきり「神の愛は素晴らしい」的論旨のものが課題になっていると思っていた。習っただけのお祈りの言葉を何も考えずに言える程度の中学2年生に、信仰そのものの意義を問うこの小説を読ませた国語担当はなかなかのセンスだと思う。

 

こういうテーマ性のある話では、主張というか、「どの肩を持つか」ということがどうしても透けてしまいがちなのに、『沈黙』にはそれがない。才能の他に、彼が日本生まれ日本育ちの日本人キリスト教徒であるからそういう書き方ができたのだと思っていた。

文学作品の映像化というのはとても繊細で難しいと思う。文章には間があり、読み手が想像する隙がある。同じ文章を読んでも、ある人はロドリゴを献身的だと感じ、ある人は高慢だと思うだろう。もちろん一方が誤読をしているのではなく、文章にはどちらの要素も含まれており、その比重が読み手の感性で変わるということだ。映像にも同じ現象はあるが、視覚による情報量が多い分、読み手に委ねられる解釈の隙は少ないと思う。台詞の言い方、役者の表情、BGM、カメラワークなどのちょっとした振れ幅で、製作側の意図を観客に示すことができてしまうから。

なにが言いたいのかというと、小説『沈黙』 のプロット以外の部分も忠実に映像化されていたことに感嘆したのです。それもアメリカで。前に出した例をもう一度持ち出すと、ロドリゴを献身的あるいは高慢、どちらかに振れて描くほうがよっぽど簡潔なのに、どちらの要素も入れつつ比重は観客に委ねさせる隙が小説と同じ ように作られていた。各々の立場を表すようないくつかの象徴的な言葉も、あくまでも決め台詞ではなく対話の中で語られていたり。小説がどの肩も持たないような作品だったからといって、 映像でそれを実現するのは容易ではなかったはずだ。構想から28年とのことだったが、その間に監督がどれだけ遠藤周作『沈黙』に向き合ってきたかがヒシヒシと伝わる。

 

そうした解釈の隙の中で描かれるのは、何かの是非ではなく、信仰とは?という人が人として生きる中でのコアな部分。キリスト教という一つの宗教だけの話ではなく。

そして、映画ならではの部分として、海が山がとにかく絶景だった。それらを引きで写す場面で対比される人間が、時代も宗教も超えて迫ってくる。159分。とても良かった。

 

山中瑶子『あみこ』

緑色音楽』を見て大下ヒロトを好きになったという話を書いて早々、彼が出ている映画があると知ったので早速行ってきた。夜のミニシアターに訪れる人間は思春期に燻った自意識が今も焦げついているはずなので、あみこのパンチがささる。主観。 

 

「こじらせ」という便利な言葉は誰が言い出したんだろう。あみこはそんな「思春期・自意識・こじらせ」のスリーワードを煮詰めたような女子高生で、現実のそういう女の子は大抵脳内で全てを作り込んだのちに行動を起こさず閉幕するのだけど、あみこはちゃんと爆発するから爽快であるし、私たちの思春期が救われる。あみこになれなかった私たちがあみこによって成仏していく。

罪作りアオミは本当にいい佇まいで、あんな言葉、自分と彼だけが特別だと思いこんでしまうのに十分すぎる。アオミくんも自分の中では虚無感とか倦怠感を抱えているんだろうけど、あみこのそれと違うのは満たされたいと思っていないところなんだよな。飢えていない。こちとら誰にも分かってもらえない自分を分かってもらいたくて、本当は何も持っていない自分を特別だと言ってもらいたくて、そういう運命的な人を欲して欲してこんなにぐちゃぐちゃになってるのに、アオミくんはズルい。来世はこういう男の子になってみたい。

 

自分の話をすると私は中学高校と女子校で、思春期も自意識もこじらせも、異性のいない環境下でのそれはもしかするとおままごとだったのかもしれない。全ての女子校に当てはまるのかは分からないけど、やはり異性の目がないことで、自分が自分でいることに割としがらみのない青春だったように思う。それはある意味健康的であるけれど、互いが恋愛対象になりうる視線の中で自分を作ったり持て余したりするのも自我の形成において必要だったんじゃないだろうか。もちろんそれは経験しなかった青春の過大評価かもしれないし、異性がいない青春というのもまた別ベクトルにこじれていくんだけれど。

 

言っちゃ悪いがこの予告編ではおもしろさがあまり伝わらないのでとにかく本編を見てほしい。BGMもこの尾行時のメロディーじゃなくて、エンドロールの曲でいいのに。あの曲良いなと思って、でも映画館出たら忘れてしまった。レディオヘッドでもサンボマスターでもなくて、なんだっけ。分かる人教えてください。

 

構成は全く違うけど、勝手に魂の会話だと思い込む悲劇といえば川上未映子の『わたくし率イン歯ー、または世界』が思い出される。そう思えば川上未映子のルックスはちょっとあみこっぽさがあるね。

 

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中村佳代『緑色音楽』

タイトルの緑色はグリーンリボンという臓器移植の普及のシンボルからきており、この映画はそのキャンペーンの一環で作られたもの。だからたくさんの人が見られるようにしばらくYouTubeで見られるようになっていて、結局公開が終わる間際になってやっと見た。

 

そういう作品なので、セーラー服を着てひまわりを持った可愛い後輩が「臓器移植医療のシンボルマーク」などと耳慣れない言葉を口にしたりはするけれど、映画を通してメッセージの押し付けはあまり感じず、なぜならあくまで啓発を着地点としているからでしょう。

主人公が臓器提供する側でもされる側でもなく、幼い頃に亡くした父がどうやら臓器提供をしたらしいということを浪人生の今ひとりで知るという絶妙な立ち位置、そこに配置されたのが村上虹郎というのもとても良い。彼が持つ自分を持て余し気味な青年感がこの話にちょうどよい。

 

劇中でもそういったシーンがあったけれど、自分の大切な人がその選択をしたとき、丸をつけるのは私じゃなくてもカードを提示するのは私になるはずで、自分はそれをできるだろうか。もちろんその逆も然りで、私は私の大切な人にGOサインを出させることを背負わせてよいのだろうか。

もちろんすぐに答えは出ないけれど、そういうことを考えさせることがこの映画のゴールで、なるほどなるほど観てよかったな、考えの種を持てたな、オダギリジョーはやっぱりかっこいいな、なんて思いながらホームページを見ていたら「REVIEW」欄にあった大下ヒロトのコメントにぶん殴られた。

僕は昔から臓器を提供するにチェックしていたのですが、僕の母親は「絶対に臓器提供は許さない。少しでも生きていてほしい」と言いました。これは僕1人で考えることではないと思いました。いくら自分が臓器提供をしたいと思っていても、家族が納得しないとそれは臓器提供にはならないからです。けど僕は臓器提供の事をもう一度考えることが大事なんだと思います。

なんというストレートさ。この映画が多分伝えたかったものが剥き出しで言葉になっているよ。彼はスピンオフで学生時代の父を演じた若い俳優。この人のことを初めて知ったけど好きになってしまった。

 

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